瑞浪

日合の酒

杉戸の父は『いつかお前と酒が飲みたい』と、酒を飲む度に言った。
正月にほんの少し飲まされるそれは、魅力的というわけでもなく、ただ頭痛の引き金となった。 杉戸の成人式の日、父と晩酌を共にした。冬の冷たい雨が窓を曇らせていた。
のちにわかった事だが、この頃すでに父はすい臓炎を患っていた。
父は気に入っていた新潟の吟醸酒を冷酒で飲んだ。 父が飲むのはもっぱら日本酒で、洋酒――特にワインを嫌っていた。 お上品な飲み物だと、日本男児の酒ではないと、一方的に言って受け入れなかった。 英文学科に進学していた杉戸にとって、父は過去の残した負の遺産そのものだった。 ガラス製の徳利を父は愛用していた。曇りがない透き通った美しい徳利。 その中で波打つ吟醸酒は果実の芳醇な香りがした。
父は目を細め、一気にくいっと飲む。杉戸はその動作が気に食わなかった。
素晴らしい素材がそろっているのにも関わらず、味付けに失敗した料理、そんな感じがいつもしたのだ。
杉戸はビールを好んだ。日本酒は嫌いではないが、 やはり喉を通る瞬間の快感はビールの他にないと思っている。
そんな杉戸の横で父はいつもより速いペースで飲み続けた。
杉戸はちびちびと飲んだ。会話はない。
その場にありあわせた酒を日合の酒というが、 きっと父との間にそんな酒は存在しないだろうな、杉戸は酒で霞み始めた頭で思った。
そのうち父は酔いつぶれていびきをかき始めた。
杉戸はたいして酔ってはいない。杉戸は騙されたと何故か思った。
結局、父が何をしたかったのかがわからない。 自分との晩酌が何らかの意味を成すものだったのか。
雨は止んだが厚い雲のせいで一向に月は見えなかった。

            +++

「式の後は写真屋に行きましょうよ」
 鈴子は家族四人の食卓の席で提案した。
「いいよ、面倒くさいし。着物って慣れてないから早く脱ぎたいと思うし」
「もったいないじゃないの、ねえ、あなた」
鈴子は杉戸に同意を求めた。五十近くになった杉戸は二杯目のビールを飲んでいた。
「そうだな」
「はいはい、わかりました」
上の娘は本当に面倒くさそうに答えた。
「姉ちゃん家に帰ったら、父さんの晩酌相手すれば?」
下の娘が言う。上の娘は「ビール嫌いだし」の一言で済ませた。
「もっと親孝行すればいいのに。父さんも晩酌相手欲しいよね?」
杉戸は苦笑いをしながら、ビールを口に含んだ。
明日、娘が成人式を迎える。晩にはきっと酒を飲むだろう。
そして娘の飲むそれはビールではないのだろう。
さて、どうしたものか。何かを語るべきか、否か。
杉戸は何度もあの日の事を思い返すが、ちっとも参考にならない。
父から譲り受けたガラスの徳利は一点の曇りもなく、食器棚の奥で申し訳なさそうに光っている。

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