瑞浪

けだるい朝

 公園は通りよりもさらに空気が冷たい。地面は適度に湿っており、木の葉には朝か夜かの露に濡れている。空も全体にほんのりと紫が混じり始めた。
 ブランコを見つけたが、雨の水が乾ききっておらず、乗るのは出来なさそうだ。
 水飲み場には破裂した水風船の残骸とアイスの棒が落ちている。こんなごみでも季節を感じるのだから不思議だ。
 ベンチはかろうじて湿っている程度だったので、とりあえず座る事にした。こんな朝早くからベンチに一人座っているわたしを見て、ほかの人はどう思うだろう。痴呆症患者に見られるだろうか。歳をとっても脳だけは健康でありたい。
 肌寒くなってきた。煙草の匂いが恋しくなった。わたしは煙草は吸わないで匂いを楽しむ。そちらの方が身体に悪いのは分かっている。完全にやめられないのはニコチン中毒患者だからだろう。
 わたしは煙草の似合う女性になりたくて煙草を吸い始めた。子供の頃に見たドラマや映画の影響であるのはまず間違いない。子供が立ち入り出来ない場所(ホテルのバーだとか車の運転席だとか)で煙草を吸うのは大人の証のようであった。
 火をつけた煙草を口に運ばず手で持った。一縷の煙が垂直に上がって行く。大人の、匂いだ。
 ベランダで煙草を吸っていた父は、その時だけ父ではなく男性に見えた。わたしは、この男性になぜ母は惹かれたのかが少しわかった。


 ベンチで煙草の匂いに酔っていると、煙の向こうからワイシャツを着た老人がこちらに向かってくるのが蜃気楼のように見えた。
「申し訳ありませんが」
 老人はわたしの前で立ち止まると張りのある声でそう言い、
「わたしにも一本、お裾分けしてもらえませんか」
「はあ」
 突然の申し出にわたしは戸惑ったが、断る理由もないので一本、その紳士的な老人に渡した。
「どうぞ」
「どうも」
「あの、座りますか?」
「では、お言葉に甘えて」
老人はそう言うと、右端に座っている私から遠ざかるように左端へ座った。
 ズボンのポケットからマッチを取り出すのがわかった。しゅっ、しゅっ、と何度か摩れる音がしてからジジ・ジ…と火の音がした。
 老人には煙草よりパイプのほうが似合っていた。
「なかなかいい味の煙草だ」
「そうですかね」
「ええ。あなたは吸わないのですか」
 老人はわたしが一度も煙草を吸っていないのに気付いたようだ。「ええ。まあ」と曖昧に答えた。
「それは非常にもったいない」
「そうでしょうか」
「はい」
 老人はやけに確信じみたようすで言った。
 会話をしている途中でわかった。この老人は志賀直哉によく似ていた。見れば見るほどそっくりだ。
「わたしの兄は肺癌で死にました」
 老人がぽつりと独り言のように言った。
 わたしはなんの躊躇いもなく、老人の顔を直視し続けた。
「ちょうど今日で十五年目になります。煙草を吸うのも十五年ぶりです。兄のいいつけで我慢していました」
 なぜ、と聞こうとしたその言葉を飲み込んだ。わたしとこの老人は出会って数分しか経っていない。プライベートな内容をずけずけと聞くほど、わたしは節操なしではない。
 好奇心を押さえながら、匂いだけを楽しむために瞼を下ろした。


 気が付くとわたしの煙草はほとんど灰になっていた。
 どのくらいの時間が経ったのだろう。老人はいなくなっていた。わたしの左手にはキャラメルが、老人からお礼に貰ったキャラメルがあった。口に放り込むと懐かしい、滑らかな甘い味がした。
 空にある星と月は見えなくなりつつある。
 空になった煙草の箱に吸殻を入れ、立ち上がった。
 そうだ、部屋に戻ったらもう一度お風呂に入ろう。ぬるま湯になっていても構わないから、またゆっくりつかろう。
それからベッドで寝よう。寝れなくなったら本を読もう。インターホンが鳴っても出ない。今日は徹底的に引き篭もろう。
 でも、その前に煙草を買わなくては。
 ついでにミネラルウォーターも買っておこう。
 ぼんやりと光る看板に吸い寄せられるかのように、わたしはコンビニの店内に入って行った。

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