瑞浪

けだるい朝

 変な時間に寝てしまったから、よく眠れなかったらしい。
スーツはかろうじてハンガーにかけてあるのがわかったが、シャツとスカートの状態で寝てしまったらしい。ついこの間のボーナスで買った四葉のクローバーのネックレスもつけたままだ。皮の腕時計も外していなかったので、その部分に汗がじんわりと溜まっているのが気持ち悪い。
 なんともけだるい朝だ。
 朝の三時に目が覚めるのは学生の、しかもテスト前日以来ではないだろうか。わたしは前日丸暗記型だった。学生時代は写真部の一員で、写真家になろうと思っていた時もあった。でもその夢は誰にも言ったことはなかった。気まぐれの夢は心の内に秘めておくものだと思っていたのだ。 朝の風景が好きだった。夜とも朝とも区別しがたい時間に起きて、カメラを持って近所を散歩した。公園のブランコやシーソー、自動販売機の点滅する白、コンビニの明る過ぎる光、草むらの匂いとそこから聞こえる虫の声、遠くからの蛙の鳴き声、星と月があって、だんだんと広がる薄紫の空。その場の空気や雰囲気を閉じ込めるつもりでシャッターを切っていた。
 グレーのカーテンからとても薄い、光とも言えないような光が入ってき来た。手を伸ばしてカーテンを少し開けると、ビルとビルのちょっとした隙間からあの薄紫が見えた。
 無性に外へ出たくなった。
 ベッドから起きようとすると、枕に口紅がついているのに気付いた。どうやら化粧も落としていなかったらしい。
 シャワーかお風呂か迷ったが、お風呂に入ることにした。今日はひさびさの休日なのでゆっくり湯船につかろうと思った。
 その後に洗濯もしなくては。


 わたしは朝からコーヒーをそのまま飲むことが出来ない。まだ身体が本調子でない時に飲むと腹痛を起こすので、必ず牛乳を入れる。牛乳も飲めるようになったのは最近だ。
 髪は自然乾燥で、乳液を塗りながらテレビをつけた。
 ニュースをしばらく見ていたが、日常でテレビはあまり見ないので、だんだんとつまらなくなってしまった。ほかの局もこの時間帯は海外のテレビショッピングだとか日本の世界遺産を巡るだとか、わたしの興味をひく番組はなかった。
 わたしはテレビを切った。切った途端にテレビの中でパチパチと音がして、その後は無音に近い空間にわたしがいるだけだ。
 足を抱えて、髪がまだ少し湿っている自分がいるだけだ。
 上京してもう十年近くになる。今の会社(IT関連の会社でもうすぐ支社も出来る予定だ)が軌道に乗っていなかったら、わたしはどうなっていたんだろうかと時々考える。子供の頃なりたかった職業は写真家、弁護士、絵本作家、天文学者、和菓子職人……。結局、わたしはどれにもなれずに小さな会社に勤めている。お茶くみのOLだけにはなりたくないと、学生の頃は思っていた。
 髪もまだ乾いていないのに、着替えて外に出た。
 まだ夜の匂いがした。それと自分の髪のシャンプーの匂い。
空気はこの季節には珍しくひんやりとしている。夜中に雨が降ったようで、道には部分的に黒くなっている所がある。
 煙草とライターと財布と部屋の鍵だけを持って外出するのは本当に久しぶりだった。逆に軽すぎて不安にもなるが。
 通りには誰もいない。遠くで蛙ではなく車の走る音とバイクの映画のような音がした。昔、SF小説で幹線病が原因で隔離された街の話があったが、そんな感じだ。全部自分の街ではなく、その外での音。その本の挿し絵に感動して何度も模写した覚えがある。
 この近所には団地があって、そこに小さな公園がある。こんな時間だから子供はいないだろう、そう思うとブランコに乗りたくなった。ブランコならどこの公園にでもあるはずの遊具だ。
 最後に乗ったのは中学校の、文化祭の、準備期間だったような気がする。友人たちとコンビニで買ったアイスを公園で分けて食べた。鮮烈に記憶しているのは、きっと門限の七時を初めて破った記念すべき日の事だからだ。
 わたしには友人が少なかった。わたしの調子に合わせられる人はなかなかいない。幼い頃から、自分の性格をよく理解していたので無理に友達を作ろうとはしなかった。よりよい人間関係を作るためには、無茶をしてはいけないものだ。

http://bungeiclub.nomaki.jp/
design by {neut}