瑞浪

桜雨

「……怖いんだよね。自分が満足しても他人に優劣つけられる。ピアノが嫌いになりそうでさ」
「……どこの世界でも同じでしょ、それは」
「まぁ、そうなんだけどさ」
「それじゃ、ピアノの次に好きなものって何?」
「……特にない」
「じゃあ菊江も美術系いこう。絵、好きでしょ」
「見るのが、ね」
「じゃあ美術史」
「魅力は感じるけど」
「菊江」
 突っ伏していた私は起き上がって、理恵子と向き合った。
「音楽室なんだから、ピアノ弾いて」
「吹奏楽の練習で来てるの。楽譜持ってきてない」
「簡単なのでいいからさ」
「そーゆー気分じゃないのさ」
「……ケチ。『猫踏んじゃった』でもいいのに。あ」
「『あ』?」
 理恵子の視線の先を追うと、雨が降っていた。
 春なのに。
「桜が散っちゃうね」
「……」
「桜の咲く頃の雨をね、桜雨って言うんだってさ」
「……」
「理恵子?」
「『桜々散って佳人の夢に入る』」
「誰?」
「上田さん。美人が桜を散るのをながめていて、夜寝ると夢の中まで桜が散り続ける、という歌ですよ」
「よく知ってるね」
「『さくらさくら』が印象的だったからね。…桜散っちゃうな。折角満開だったのに」
「もったいない?」
「うーん。はかなくていいんじゃないかい」
「それこそノスタルジアだね」
「あ…うまいこと使ったね」
 次第に雨の音は大きくなっていった。蒼っぽい陰が音楽室に広がっていった。私たちはそれに飲み込まれていった。

                         §§§

「遅れた」
 理恵子はそっけなく言った。普通は謝るだろうなと思った。
「一年、どうしてた?」
「波乱」
「結婚して離婚したって本当?」
「人生そんなもんだ」
 理恵子は店員を呼んだ。
「コーヒー」
「私も」
 驚いたように理恵子は私を凝視した。
「ココア残ってるじゃん」
「まぁ、いいから」
 困惑している店員に私は構わないからと、合図を送った。
「菊江、コーヒー飲めるようになったの?」
 頬杖をついて聞く理恵子。
「そう」
 常温程度になったココアを一気に飲んだ。さっきまでの甘さがくどく感じた。
「雨降ってるね」
「『桜々散って佳人の夢に入る』」
「あれ、菊江覚えてたんだ」
「うん」
「そっか」
 運ばれてきたコーヒーはココアよりも暗く、透き通っていた。
「変わらないものもあるんだね」
 クリームを入れたコーヒーをかき混ぜながら、理恵子は呟いた。

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