瑞浪

桜雨

 雨だ。雪、じゃなくて雨。もうそういう季節になってしまった。
 指定された喫茶店はアラベスクの第一番が流れている。
 制服に腕を通さなくなってから、一年経った。商店街に新しく開店する若い人向けのカフェ、そこがわたしの来月からの職場になる。本当は東京の有名店を希望していたが、スキルが未熟なため落ちた。
 …まぁ予想していたので苦ではなかった。
 理恵子は四年制大学に進学して結婚した。そして一ヶ月前に離婚した。本人とは卒業式以来会っていない。すべて彼女からのメールで知ったことだ。会おうと思えば会える相手、だから会えない。人間関係なんてそんなものだ。
 メールは淡々と送られてくる。私の中で理恵子という人物が虚像のようにゆらゆらと揺れるようになっても
彼女の情報はレンズになってそれを実像に変える。
 店員が注文したココアをテーブルに置いた。彼女の半透明に塗られた爪がきらきらと光っている。
「ごゆっくりどうぞ」
 決められた台詞をにっこり笑いながら、言う。
 私も軽く笑い。会釈した。
 カップを両手で包むと、じんわり手のひらに熱が伝わり始める。嚥下すると、まったりとした甘みと香りが口内に残った。
 まだコーヒーをそのまま飲めないことを知ったら理恵子は何と言うだろうか。

                         §§§

「理恵子は美術系大学、いくの?」
 鉛筆を削っていた理恵子に問い掛けたことがあった。
 春休みだった。ちょうど二年前の今頃の時期。
 理恵子は作業を休めることなく、「うん」と答えた。
「絵、描くの好きだし。ベンキョーしなくてもいいし」
「そうなんだ」
「菊江は?」
「まだ決まってない」
「そうなんだ」
 理恵子の左手の人差し指には黒い粉が付着していた。太陽の光だけで十分明るいと言うので、電気はつけていなかった。そのせいであの放課後特有のしんみりとした感じが、室内にあった。
「ノスタルジアっていうんだってさ」
「は?」
 削ったばかりの鉛筆で、机にNOSTALGIAと書き記す。
「何てゆーの。こういう…郷愁にかられる感じ?」
「空虚とかはかないとかそーゆーの?」
「そう」
「……だから?」
「……後一年で、ここのノスタルジアともお別れ」
「無理にその言葉使おうとしてるでしょ」
「してる」
 笑いながら返答する。
 理恵子の笑みは人の誤解を招きやすい。薄笑いに見えて、相手を怒らせることが何度かあった。
「菊江も音楽系とかいけばいいのに」
「無理」
「何で? ピアノ好きでしょ」
「好きだよ、楽しいし。でも一番好きなことが辛くなったら、きついじゃん」
「きつくならないようにすればいい」
「難題吹っ掛けないでよ」
 机に突っ伏して呻いた。
 確かにピアノは好きだった。幼稚園から親の薦めで始めて、高校まで続けていた。難しい曲だって何時間もやれば弾けた。充実した時間を過ごすことが出来た。
 でも。

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