瑞浪

ガラス綴じ

 里上 文を「アヤ」と呼ぶには、いささか抵抗があった。「アヤ」はばあちゃんちのオス猫の名前だったから。
「アヤ」は人間で言うところのご隠居さんで、いつも日の当たる場所にごろんと寝転がっていた。じいちゃんと「アヤ」は仲が悪いがそれなりにうまくやっている、そうばあちゃんはよく言っていた。
 そんな訳でわたしは彼女を名前で呼べなかった。いつまでも名字で呼ぶわたしに、彼女は、「どうして名前を言ってくれないの?」と問いただすようになってしまった。しかたなく名字から「里ちゃん」と呼ぶようになった。「里ちゃん」は私だけが使う、彼女の唯一のあだ名だった。

                           ***

 里ちゃんとわたしは生まれが同じ、京都だった。低学年の春にわたしが、秋に里ちゃんが、転入した。どちらも親の都合というものだった。わたしたちの家はご近所さんで、どちらがという訳でもなく、自然と会い、話し、遊ぶようになった。
 その頃、わたしにはまだ自分の部屋がなかったが、里ちゃんにはあった。机とベッドとクローゼットと本棚がある部屋。本棚には絵本ではなく図鑑がみっしりと置かれていた。おもちゃがない、すっきりとしてどこか冷たい部屋だった。
 里ちゃんの部屋で、わたしたちは本ばかり読んでいた。大きめの図鑑を二人で一緒に。動物図鑑、植物図鑑、昆虫図鑑…なかでも大図鑑は五十音順に様々な事柄が載っていて、一日かけても読み終わらなかった。牛乳パックの底くらいの厚さがあった(実際にわたしたちは物を当てて調査したので、これはたしかな情報だ)。
 わたしたちはベッドの上に寝転がり、肩を寄せ合ってそれらを見た。笑い、驚嘆の声を上げ、いくつかのページは飛ばしながら。ページをめくるのは、里ちゃんの仕事だった。
 図鑑に書いてあることを調べたことが、もしくは試したことがある。チーズを牛乳から作り、父親の煙草をこっそりくすねて分解し、タオルで民族衣装を模したりした。次第にわたしたちは自分たちだけの図鑑を作りたいと思い始めた。そしてわたしたちはそれを実行に移した。
 とはいっても、小学生が作れるのは図鑑を真似た図鑑もどきだった。ほぼ盗作と言ってもいいだろう。紙に色えんぴつなどで絵を描き、説明を書くだけだったのだから。
 里ちゃんはそれで満足しなかった。
「わたしたちで新しいものを作ろ」
「新しいもの?」
「うん。ものじゃなくて言葉とか」
 そういえば、そんな勉強をしたと私は思った。小学校低学年のこくごは、文字遊びのようなものから始まる。文法だとか漢字だとかはまだあまり学ばなかった。
「たとえば?」
わたしは里ちゃんに聞いた。
「…そう言われると…難しいね」
里ちゃんは困ったような、笑ったような表情を浮かべた。
「そうだ、コレクション増えたんだよ」
 里ちゃんが立ち上がった。ベッドが波打つ。里ちゃんがベッドの下のわずかな隙間から、平べったい箱を引きずり出した。箱の中には小さな細々としたものがぱらぱらと入っていた。
「見て」
 フローリングの床に座り込んで、ベッドのわたしに手の平のコレクションを見せる。
「…さくら、だね」
「うん」
 満面の笑みで里ちゃんは答えた。
 里ちゃんは箱の中の細々としたもの―――箸置きを集める子だった。箸置きといっても古臭い陶器のようなものもあれば、銀色の羽の形をしたもの、プラスチックの透明なキューブ、花のような形のスパイス…、小物といえばそうなのだが、里ちゃんは常にその上に箸を置いたときを想像してそれらを集めるのだ。
 里ちゃんの手には、碁石のような形のガラスの中に一枚、桜の花びらが浮いている箸置きがあった。
「きれいだね」
 ひんやりとしていたであろう、その箸置きを摘んで窓からの光にかざした。
「それね、京都のおばあちゃんのお土産なの」
「こっちに来たの?」
「先週ね。文ちゃんの顔が見たくなったって」
 わたしはこんなとき、妙な気分になる。日向ぼっこをしている「アヤ」が脳裏を過ぎるのだ。

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