時計塔

プロローグ

それから数日が経ち、僕は夜になっていつものように隙間に戻った。そして一番奥にある置き捨てられた布の塊で身を包み、眠りにつこうとして腕の中に顔を沈めて目を閉じた。
――が、すぐに開けることになった。
突然、隙間の向こう側に誰かが立っている気配がした。
僕は目だけを腕から出し、視線をその細い隙間を真っ直ぐに辿らせた。
その人物は、隙間の奥に僕がいるのを確認すると、ゆっくりと歩きだした。
コツ――コツ――と。
ヒールのような軽い足音が聞こえる、――いつもの大人達じゃない。
目を凝らしてその姿を確かめようとしたが、街の街灯の所為で影がかかってしまっていた。
コツ――コツ――…。
その人物がだんだん近づいてくることによって、自分と変わらぬ歳の少女であることがわかった。
コツ――コツ――…コツン。
そしてその少女は、僕の目の前で立ち止まった。
僕は完全に顔を上げ、その少女の姿を見上げた。
腰の辺りまでの黒いコート、その下から銀の糸で縁取られた新緑のドレスが覗いていた。
後ろで丸めに纏められた綺麗な黒髪、その髪によく映える銀で出来た水仙の簪。
そして彼女の顔は、この街で美人コンテストというものを開いたとしたら、審査する間もなく真っ先にトロフィーをもらうことになるだろうと思うぐらい、美しかった。
少女がゆっくりと、薄い唇を開いた。
「私はチョ・フィヨンと申します。」
そう言うと、目の前に立っている少女はスカートの両端を持ち上げてお辞儀をした。
やはりこの国の名前とは違う…。
「…外国人か。」
僕は再び腕に顔の下半分を沈めた。
「えぇ。」
少女が頷いた。
「外国の、貴族ですわ。」
そして少し間を置いて付け加えた。
それから家紋のブローチのような物を取り出し、僕に見せてかすかに微笑んだが、僕にはどう反応すればよいものかさっぱり分らなかった。
僕はそんな物のことより、
――貴族の娘が一体僕に何のようだ?
なんであろうとどうせロクなことは起こらないだろう。
勘弁してくれ…。

といった方向に思考回路を巡らせることに集中していた。
「この前も、」
だがそんな僕の心情を他所に、少女再び話出した。
「ここにいましたね。」
そう言ってあたりを見回した。
「馬車の中から見えましたわ。」
僕はその言葉に驚いて、再び彼女を見据えた。
おそらく、数日前に噴水広場を通りすがっていったあの馬車のことだろう。
やはりあれは気のせいではなかったのだ。
――最近の貴族は一瞬目が合うだけで、絡んでくるのだろうか。
僕の目の前で立ち止まった少女を思い切り睨みあげた。
濃い隈の出来た、青白く、酷く痩せこけた顔。その状態なのだから今の僕はきっと血に飢えきった吸血鬼にも負けないぐらい恐ろしい顔になっているだろう。
しかし少女はそれに全く怯む様子も見せず、むしろ僕の反応を楽しむかのように目を細めた。
「あなたのお名前は?」
少女が聞いてきた。
僕は一瞬躊躇ったが、だがすぐに口を開いた。
…レニア。
声が掠れ、小さくなってしまった。
やはり聞こえていなかったのか、少女が耳をすませたので、もう一度言うことにした。
「レニア。レニア・グラント。」
今度はゆっくりと、そしてはっきりと確かめるように言った。
自分の名前を言ったのは何年ぶりだったろうか…。
覚えていたのが不思議なくらいだ…。
「そう、」
少女が納得したというように頷いた。
「こんばんは、レニアさん。」
そして、優しく微笑んだ。
それが、僕の物語を大きく狂わせた少女・フィヨンとの、最初の出会いだった。

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