瑞浪

卒業の色

「卒業したあとに実感が沸くよね」
 予行演習の後で後輩たちが体育館中にパイプ椅子を並べたりするのを、ステージの上から眺めながらみどりは言う。帰宅部の私は去年も一昨年も卒業式に参加していない。今年が初めてだ。みどりは毎年自分の部の先輩を見送っているので、会場の空気に慣れている。
「そうかな」
「だってこの制服も靴下も上靴も、着なくなるのは卒業式じゃなくてしたあとでしょ」
 私は言い上げられる順にみどりのそれを見る。所々に絵の具が付いた制服、白い無地のくつ下、絵の具を踏んでしまった上ぐつ。
「みどりは卒業した後どうするの? 制服とか」
「……。捨てる、かな」
 みどりは天井の遠くのほうを見て、目を細めて言った。
きっと進学先のことを考えているのだろう。二月の上旬にアパートの契約を終えたと話してくれた。家具は大体付属されていて、油絵を描けるスペースがあるくらい広いよ、バイトしたらそれなりに暮らしていけそうだよ。そう、話してくれた。
「マニアに売ったら、金になりそうだけどね」
 こっちを向いて笑う。すがすがしい笑い方だなと、よく分からない日本語が出てきた。
「それは犯罪でしょう」
 私も笑った。笑うと子供っぽくなるので自分の笑顔が少し嫌いだ。
「由希子は今日行く? ドーナツ屋」
「奈菜と三人で、でしょ? もちろん」
 奈菜とは同じクラスで文系だったのに看護の専門学校に進学した子だ。しかも推薦で、授業料も免除されて本人は大満足らしい。
「割引が二月いっぱいだってね。全品百円、カフェオレ飲もうっと」
「コーヒーの方がおいしいのに」
 みどりはジャンプしてステージを下りた。

 お昼代わりなので一人二個ドーナッツを買った。いつもの窓側の席(奈菜は人間観察が好きなのだ)に私とみどりが、奈菜は向かいに一人で座る。まだ肌に当たる風は冷たいが、お日さまの光はぽかぽかと、きらきらと感じられる。
「三年間って早くもないけど、遅くもなかったよね」
 奈菜が手に付いたチョコレートを拭きながら言った。爪は薄いピンク色に塗られている。私はカフェオレをごくりと飲んでうなずく。
「ほんとにね」
 チュロスのシナモンでべたついた口をナプキンで拭って、みどりも同意した。奈菜が私とみどりを交互にくすりと口の両端を上げる。奈菜の笑い方は上品で憧れる。
「由希子とみどりってマラソンアウト組だったよね」
「……」
思わず黙る私。
「ああ。まあ、アウトだったけど」
 なんでもないようにコーヒーをすするみどり。みどりはひねっただけだから、彼女が心底羨ましい。
「でも次の年は由希子と私は君より速かったよ?」
「まあ、そうだけどさ」
 話がそっちに逸れなかったのが救いだった。でも、また思い出して溜め息を吐いてしまった。
「そういえば、由希子はピアノやめるの?」
 マフィンに取り掛かったみどりが横目で尋ねてきた。
「うん。大学生で習い事っていうのはちょっと…。それに自分の弾きたい曲はだいたい弾ける力が付いたし」
「あ、ちょっと! あの子見て」
「ん?」
 みどりが奈菜の指差すほうに身を乗り出した。私もつられたようにそちらを見る。私はその子を確認して、「あ」と声を上げた。
「あれ、うちのクラスの水野さんだよ」
「だよね」
「見えん」
 みどりはバッグから眼鏡を取り出してようやく確認した。そのときには状況は変わっていて、水野さんはブレザーの男子と笑っていた。
「あれ、どこの高校?」
 みどりの疑問に奈菜はすぐ答えた。
「高校じゃなくて中学よ。しかも私の出身校だし」
「まじで? 大人びた顔してる」
「水野さん物静かでお嬢様ぽかったのに、年下ですか。大胆だなぁ」
「どしたの? 由希子。黙っちゃって」
 二人のやり取りを聞き、また溜め息をついてしまった。しかもさっきよりずっと深いやつを。もしも目の前にドーナッツとカフェオレの載ったプレートがなかったら、そのまま突っ伏していたに違いない。それができないので、椅子に寄り掛かって天井を仰いだ。身体中が重力に従っている感じ。たった今胃に入ったドーナッツもカフェオレも身体の一部に感じられる。
「ゆーきーこーさん」奈菜が急かす。渋々私は答えた。
「あの男子、うちの向かいの子」
「うそっ」と言ったのは奈菜。「へー」と言ったのはみどり。
「どんな子なの?」
 奈菜はその手の話が好きなのですぐに聞きたがる。
「サッカー部で、成績は中の下ぐらいだって。中三」
「じゃあ今年卒業! 愛し合う二人は高校で一緒になれず」
「なにか問題でもあるの?」
 みどりはマフィンの最後のかけらを口に放り込んで聞いた。
「だっていやでしょ。私が彼の情報を持ってるのは、彼が私の情報を持ってるのとイコールでしょ。あー、いろいろ吹き込まれていますよ。きっと」
「まぁ、そうかもね」
 さばさばした態度で奈菜が同情する。問いただして最後にそれか。みどりは肘を付いて外の二人を眺めている。あまりにも長い時間凝視しているので、奈菜が話題を変えた。

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