如月裕

篳篥と射干玉のよるべ

鋭く、刺すように悲しい音色が男の中をかき混ぜて通り抜ける。男はその音色に耳を傾けるうち、音がだんだんとこちらに近付いてきていることに気付いた。最初は己が身を入れて聴いているせいかと思っていたが、違う。これは明らかに近付いてきていた。そののち音はすぐそば、男の庭の辺りで止まった。そこから以降音が近づこうとしないので、何かあっただろうかと男は障子をあける。
「誰だ」
「おお、やっと気付いてくださいましたか」
男の言葉に返事をしたものは、庭に植わっている大きな柿の木の枝に、どこにも掴まっている気配はなく、ひどく軽い様子で立っていた。狐面をかぶり、狩衣を身にまとってはいたものの、声音で女性と判断することが出来た。男が出てきたのに合わせ、ふわりと柿の木から地面に降り立つ。
「急な事で申し訳ありませんが、お願いがあるのです。私は明日、この地を発たねばなりません。そこで、今晩中にあなたに竹細工を作っていただきたいのです」
まるで芝居でも演じているかのように朗々と、狐面は男に言った。対して男は、不審も疑問も露わに問う。
「なぜ私に頼むのだ」
何もふもとに竹細工師がいないわけではない。むしろ確実にふもとの方が多いだろう。この地を発つにしても、正直、竹細工師などはどこにでもいる。なのに、どうしてわざわざこんな山奥にこもっている地味な竹細工師などの所へ。
「私はあなたの竹細工をずっと見て参りました。あなたの細工は素晴らしい。ゆえに、私はあなたに頼みに参ったのです」
誉められて腹の立つ人間などこの世にはいない。少しばかりいい気分になりながら男は、狐面の頼みを承諾した。
「して、何が欲しいのだ」
一口に竹細工と言っても人形やかご、はたまた道具など幅は様々だ。尋ねると狐面はすぐに篳篥を取り出して言った。
「これの入れ物を作っていただきたいのです」
真面目な気色をしてそう言い放つ狐面に、思わず男は笑ってしまった。篳篥とは竹でできた管楽器である。竹製のものに同じく竹製の籠をつけようとするとは。悪いですか。そう少し拗ねたような気配で狐面が言う。男は、いや何も悪くない、と返した。
「篳篥がための籠だな、承知した」
そう言うが早いか、男はさっそく籠を作り始めた。篳篥など男には触れたこともなかったが、狐面の身体の大きさから寸法はおおよそ見当がつく。籠からはみ出しさえしなければいい。
男の手の動きはよどみなく、余計なものなど一つもなかった。男か籠を作る間、狐面は柿の木の辺りからじっとその手の動きを見つめていた。その視線に気付いたのか、男は急に手を止め狐面の方を向いた。
「…毎夜、私のことを見ていたのはお前か」
狐面の体が硬直した。面のせいで細かな表情は読み取れないものの、明らかに動揺しているということは分かった。己の竹細工をずっと見てきた、というのは市などではなく、その制作過程を見てきた、ということだろう。
「気付いていたのですか」
「あれだけ視線を送られて、気付くなという方が難しいだろう」
男の口調は固くはあったがしかし、決して狐面を責めているわけではなかった。ずっと思っていたのだ。わけも分からず遠くからじっと見つめられるぐらいなら、姿を明かして近くで見てくれていた方がよほどいい、と。
「こっちに寄って見てもいいのだぞ」
一向に柿の木から動こうとしない狐面に男がそう言うと、狐面は悲しそうな声音で言った。
「そちらに桃の木が植えてありますでしょう。それは邪気を払う木でございます。その木があるために、私は近づけないのです」
狐面がそうこぼした瞬間、二人の間に緊張が走った。男の頭が己でも信じられないほどの速さでものを考える。なぜ、狐面は邪気を払う木に近付けないのか。考えられうる理由など、はなから一つしかない。
「……お前は化生か」
男は狐面に、短く問うた。冷静に考えれば怪しい点などいくつもあったのだ。柿の木は確かに太くはあったが、人が簡単に乗れるものではない。ましてや、どこにも掴まらずに立つことなど、人の身にはまず無理だ。そもそも音も立てずに木に乗ることや、この山道、砂利音を立てずに登ってくることなど困難を極める。長い長い空白の後、狐面はゆっくりと口を開いた。
「…ええ、私は人の身などではございません。この面の通り、私の本性は化生、狐にございます。人語を解す狐がいきなり出てきたところで、竹細工を作ってくださるとは到底思えなかったものですから、つい」
このように化けて出て参りました、と狐面は付け足した。正直狐面は、事実が明るみに出てしまえば男はきっと、自分を忌避するだろうと考えていた。しかし男はそうかとだけ言うと狐面を追い払うでもなく、また黙々と籠を作り始めた。意図の掴めない沈黙に耐えきれず狐面は零す。
「…追い払わないのですか」
今まで自分があった人間たちはみな、己が化生であるということを明かすと私を追い払った。ある者は枝や石さえ私に投げてきたというのに、あなたは、どうして。つくづく不思議がる狐面に、男はこともなげに言った。
「私に竹細工を頼んだ時点でお前は私の客だ。客を追い払う人間がどこにいる」
分かったならば集中したいから静かにしてくれ。男はそう言い残し、また竹細工に意識を集中させた。狐面が心底嬉しそうな気色でいたことに、男が気付いていたかどうかは定かではない。

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