如月裕

篳篥と射干玉のよるべ

 闇夜に一つの双眸が光っていた。それはただじっと、ある男の手を見つめていた。そう、まるで一分も残さず全てを記憶に焼き付け留めんとするが如く、瞬きもせずそれは、男の手を見つめていた。

 男はただの竹細工師であった。政治や世に起こる悪事などめっぽう分からぬ、言えば愚直な男であった。そして、少し人里を離れた山の中に住み、竹細工を作っていられるのなら幸せという、やや変わった男でもあった。
 しかし、そんな男の竹細工は、街ではひそかな評判を呼んでいた。決して、豪奢な細工があって目を引く、というわけではない。だがよく手になじみ、使いやすく、何よりもどことない可愛らしさがあった。すべて男個人手作業ゆえに数が出回っているわけではなかったため、男がたまに麓の市などに竹細工を売りに行くと、それはたちまちに売れてしまった。
 そんな男の生活は、都人(みやこびと)からすればひどく奇妙で異質なものであった。
 朝、というか大体未の刻までは、男は市に降り食材や竹細工の原料である竹を買ったりする。また書を読み、少しは知識を広くしようとする。そして夕刻になると、ようやく竹細工を作り始めるのだ。夕刻の燃え立つような赤さや月明かりを好いていた男は、また、それらの中で作業をすることも好いていた。世間において夕刻や夜というのはこの人の世のものではないもの――例えるなら妖や化生のような――がはびこり出す時間とされていたため、忌避されるべきものであった。宮中でも仕事をするのは宿直(とのい)ぐらいのものである。
 だがしかし男はそんなものは知るかとばかりに作業をしていた。長い間この時間に作業をしているが男は妖や化生などに遭った試しはなかったし、何より、これらの時間は人が騒ぎたてることもなかったため静かで、思う存分細工を作ることだけに集中できた。
 しかし、この頃はどうも具合が違った。確かに以前と同様静かであることに変わりはないのだが、何かにじっと見られている感覚があった。それは、別に何かを仕掛けようとしているわけではなさそうだった。ただじっと、男の一挙一動全てを記憶に焼き付け留めんとするように男を見つめていた。しかし何かを仕掛けようとしているわけではないにしても、見られているというのは何とも居心地が悪い。どこから見られているかも分からぬため己からはどうすることもできない男は、その居心地の悪さに耐えつつ、作業をせねばならなかった。


 そうしてしばらくたったある日、久しぶりに月がよく照った夜。この晩だけは違った。見られている感覚がなかった。何奴かは知らぬが私に飽いたのならこれ幸いと思い、男は見られる以前からそうしていたように、黙々と作業を続けた。神経、感覚のすべてを指先とそれによってつくられる竹細工へと向ける。二、三作り終えたあと男はぴんと張った緊張を一気に緩めた。竹細工に向いていた感覚のすべてをきちんと外界へと向け直す。すると男は、普段とはまた違う異質な事が起こっているのに気付いた。
 ――篳篥(ひちりき)の音が聴こえる……。
 どこかから確実にその音色は響いていた。篳篥とは雅楽で使う管楽器である。この辺りで雅楽を行うという知らせは、耳に入ってきていない。そもそも仮にこれが雅楽だとしても、こんなにも長く篳篥だけで奏でる時間があるものなのだろうか。男は特に芸能に通じているわけではなかったので、答えを得ることはできなかった。

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