東雲

満月夜、桜の下にて

――――話す者がいないという事は、こんなにも辛いものなのか。
隙間という隙間を塞がれ、一条の光も射さない蔵の天井辺りを仰いで、ぼんやりとそんな事を考えた。
人食いのあやかしよ、忌まわしい鬼よと謂われない罪でこの蔵に封じられてから幾百の夜過ぎたのか――封じたのが余程力ある呪術師だったのだろう、壁一面に書かれた文字は外からの干渉も拒むらしく、こういった所を好む小物の姿もなければ、鬼火を出し梁に近づけようと決して燃え移る事はない。
また、蔵の戸に触れようとすれば札が貼られた腕が焼けるように痛んだ。
既に蔵にある書物は読み尽くし、見なくとも誰かに語ってやれるほど何度も目を通している。語る相手がいれば、の話だが。
確かに俺も人を襲った事はある。だが、それは友が熱を出し、代わりに薬を買いに行っただけだというのに、怯えてなかなか出さないから焦れた。お代も払った。傷を負わせたといってもかすり傷程度、胸ぐらを掴んだら肌に爪が当たった。それだけの話だ。そもそも人食い鬼とやらが出た村とは違う。
こんな場所に永久に閉じ込められるほど悪い事はしていない、はずだ。
嗚呼、友は元気になっただろうか。幼い頃、桜の下で言っていたあの夢は叶ったのだろうか。
今となっては知る術もない。

                 -*-*-*-*-*-*-

「葵!あーおーいー」
里のはずれの崖で橙から紺に染まっていく空を眺めていた俺は、名を呼ぶ声のするほうへ振り向いた先に走ってくる影を見つけた。
短い黒髪に、前髪からのぞく一本の小さな角。そいつは名と同じ色の着物の裾を乱しながら俺の前までくると、肩で息をしながら俺を恨めしそうな目で見た。走っている時ふんどしが見えていたぞ、とは言わないでおこう。
「どうした桔梗。何の用だ?」
「何の用だ?……じゃねーよ馬鹿!お前、夕方はいつも居ねぇと思ったら何でこんな外れに居るんだよ阿呆!」
来たと思ったら馬鹿だの阿呆だのぎゃんぎゃんと。
「……何処に居ようと俺の勝手だろうが」
「あぁもう!何でそう人を煽るような言い方を」
「性分だ。放っておけばいいだろう」
俺としては煽っているつもりなど毛頭ないが、桔梗は昔から数えるのも面倒になるほど同じ事をしかめっ面で言う。お前は母親か。どうしてこうなった。
「あー……まぁ良いや。今は言い争ってる場合じゃねーの!折角の機会を逃しちまう。ちょっと来い!」
そういうやいなや、桔梗は俺の右袖を掴むとここに繋がる道を逸れて木と俺たちの背丈くらい伸びて冬の間に枯れた雑草や笹の生い茂る道を歩く。顔に当たる草や足をとる笹が鬱陶しい。
「お、おいこのまま行くと里から出るぞ」
「そりゃあ出ようとしてるんだから当たり前だろー」
慌てる俺をよそにどこか楽しそうな声で桔梗は答えた。
「里から出るって……許可もらってないだろう!」
数えで二十を過ぎた鬼以外は力が弱いため、里の外に出るには許可と二十歳以上の鬼の同伴が必要だ。俺たちはまだ十二で、同伴してくれる鬼が必要だった。たとえ同伴の鬼が見つかったとしても許可が下りる可能性は低いのだが。
「相変わらず頭固いなぁ葵は。少しぐらい問題ないって」
「見つかったら大目玉だろうが!」
「ちょっとした冒険だって。葵は桜、見たいと思わねぇの?」
桜は里の中にはない。その美しさを賞賛しているのをよく聞くので想像してはみるが、おそらく本物の美しさには叶わない。桜の事を話す大人たちは皆笑顔で、そうさせるほどの力が桜にはあるのだろう。それほどのもの――
「……見たいという気持ちはある」
「じゃあ決まりな!夜桜ってやつ見てやろうぜ!」
桔梗は振り向き、悪戯を思いついたときのくしゃくしゃの笑顔で笑うと、掴んだままだった俺の袖を離して草をかき分けて走り出し、俺は慌てて追いかけた。

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