東雲

泡沫の物語

――かつて人と妖魔が共存し、理想郷と言われた国、紗環。
国の北に連なる山から流れ出す雪解水が東の大河に流れて大地を潤し、 国土に緑があふれ、西の大道が他国との物資の往来を盛んにして、益々栄えていくだろうと思われた。 しかし、(マガ)という人を喰らう物の怪が現れてからというもの、安寧は脆くも崩れ去った。 禍にとり憑かれ、凶暴化した妖魔までもが人を襲撃し始めたのだ。 国は乱れ、国土は見る影もなく荒廃し、力の強い妖魔に勝てるはずもない人の滅亡は必至だった。 人々の心が絶望に埋め尽くされた中、禍を滅却できる者達が現れ始める。 彼らの特殊な力によって禍の数は激減し、それに伴って凶暴化する妖魔も減っていった。 人は特殊能力を持つ彼らを貴石≠ニ呼び、貴石の相棒の人間を貴石使い≠ニ呼ぶようになったという。
――是れ、三百年前の事である。


紗環国の北方大都市・玄永の更に北、里翠(リスイ)という田舎村の入り口に若い男女が二人立っている。 女の方は長い栗色の髪を腰の辺りで一括りにし、年の頃は十五歳ほど、名を千早。 男の方は少し長めの漆黒、年の頃は十六歳ほど、名を奏という。
双方黙っていたならば人目を引く容姿・長身だが、所々薄く汚れた外套を羽織り、 眉間に皺を寄せて地図を見つめ、疲労の色が見て取れる今の顔はお世辞にも美しいとは言えなかった。
「・・・おい千早、里翠ってどの辺りだ?」
「玄永から少し北東に進んだ所みたい。 私達、国の中央首都・麗麟に向かって進んでいた筈なのに・・・何でこんな田舎に」
千早はがっくりと肩を落とし、奏は小さく溜息を吐いた。
二人が東方大都市近郊の街を出発したのは約一週間前の事。
馬車に六日間乗せてもらい、後は歩いてでも行ける距離だったのだが、いつの間にか樹海に迷い込み、現在に至る。
「まぁ、こんな所で言っていても仕方が無いし、この村で旅の間の食料確保と新しい外套でも買おうか」
千早はそう言い、体を伸ばしてから、背負っていた布袋に地図を入れた。
「いや、まずは飯屋で腹ごしらえだろ」
「え?必要なものを揃えてからにしない?」
「腹を満たしてからの行動が基本だ」
奏が反論した時、千早の腹付近から盛大な音が鳴り響き、みるみるうちに顔がこれ以上無いほどに赤く染まっていった。
「・・・」
「うん。千早の同意も得られた事だし、飯屋に行くか」
「いや、同意して無い」
「それじゃ、俺は先に行って、探して見つけておくからな」
一人で勝手に決めて奏は足早に歩き出す。
「ちょっ、ちょっと待ってよ!」
直ぐに古い木造の平屋の影に隠れてしまった奏を、千早は慌てて追いかけた。


その後、少し古臭い蕎麦屋の前で立っているのを見つけた。そこで二つ蕎麦を頼み、 待っている間に薄暗い店内を見回すと、いかにも田舎という雰囲気が古びた卓子や畳から感じられた。
それでもそこそこ繁盛している様で、村の住人と思われる中年の男性が数人、入って蕎麦をすすっている。
「それにしてもさぁ、何で此処を直ぐに見つけられたの?」
千早が先程から疑問に思っていた事だ。二人とも里翠に来るのは初めてで、何処に何があるのか知らないはずだというのに。
そんな質問に、奏はしれっとした顔で答える。
「匂いだ。貴石ってのは人より五感が優れてんだよ」
「嘘!?今まで気づかなかった!」
「まぁ普段は制御してるからな。滅多に使うことは無い」
「へぇ・・・」
そんな事を話していると、卓子の上に蕎麦が入った器が静かに置かれた。
千早が見上げると恰幅の良いおかみさんが二人を無言で見つめていて、その眉間には微かに皺ができていた。
「すみません、五月蝿かったでしょうか」
千早は大きな声で話していたのかと思って謝ったが、おかみさんは首を二・三回横に振った。
「いや・・・それより、アンタ達は貴石使いなのかい?」
「あ、はい。そうですが・・・・・・何か?」
そう答えると、店内にいた人が全員振り向き、かおを見合わせて嬉しそうに何かをささやき始めた。
「それじゃあ、この村に出没する鬼を退治してくれないかい?」
「鬼?」
おかみさんは、ゆっくりと一回頷く。
「そうさ。数年前から村外れの空き地に出没するようになってねぇ。禍まで現れるようになってしまったんだよ、ねぇ慶」
そう言って、おかみさんは自分の後ろに座っている、人のよさそうな顔をした中肉中背の男性に話を振る。 慶と呼ばれた男性は「ああ」と相槌を打ち、話し始める。
「時々ならまだ良いと思って思っていたさ。だが毎日来ては、子供達と遊んでいくときた。 その上、鬼と遊ぶなと何回子供に言い聞かせても駄目だ。いつ襲われるかと気が気じゃない」
慶さんは如何にも忌々しいと言わんばかりに顔をしかめる。
「でもこの数年間、一度も襲ってこなかったんだろ?それなら本当に人の子供と遊びたいだけじゃないのか?」
今まで黙って話を聞いていた奏が反論すると、とんでもないと言わんばかりのきつい視線が奏に刺さった。
「人間を油断させ、仲間を呼ぶために決まっているだろう。それで、引き受けてくれるのか?」
おかみさんと慶さんを始め、蕎麦屋にいる全員の期待に満ちた目が二人に注がれる。
「・・・ええ。分かりました、引き受けます」
千早が了承した途端、村人全員が歓声をあげた。
「そうか!次期村長として礼を言おう」
「いえ・・・あの、それでその鬼の外見は?」
引き受けても、外見が分からない事には鬼を退治できない。誤って別のものを退治しても困る。
「十三歳くらいの女の子で、山羊の角だ。鬼は一人しかいないからすぐ分かるだろう。報酬はどのくらいだ?」
「玄永までの食料と新しい外套を二つ、一頭立ての幌馬車を一台、お願いできますか?」
慶さんは「報酬金は要らないのか」と訊くが、二人は静かに首を縦に振った。
「分かった、明日までには用意しておこう」
「ありがとうございます。では」
二人は急いで伸びきった蕎麦を食べ、ゆっくりと立ち上がった。 蕎麦代をおかみさんに渡し、そのまま蕎麦屋を後にした。

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