東雲

泡沫の物語 ‐弐‐

しばらく歩き太陽が山間からようやく顔を覗かせ始めた頃、その祠は姿を現した。 手前には二つの石灯籠が据えられ、人が二人で両手を繋げば抱えてしまえそうな祠は古くなり、 塗られていただろう色はかろうじて黒だと分かるほど剥げ落ちてしまっていた。
そこまでは、少女が村の人から聞いた話と同じだった。
「あれ?誰か、いる?」
違ったのは石灯籠に灯りがともされていた事と、腰まで届く長い黒髪の少年がこちらに背を向けて立っていた事だ。
(誰かがいるなんて教えられなかったけど・・・でもあの服装って昔に絵巻物で見た天神様のお召し物に似てる?)
そう考え、少女は歩きながらおそるおそる尋ねた。
「やまがみ、さま・・・・・・ですか?」
するとその人物は気だるそうに振り向き、長めの前髪の奥にある夜色の目が少女を捉える。
「あの、私は千早といいま―――ひゃぁっ!」
名を名乗った時、雪に埋まっていた石につまづいたのか、視界がぐらりと傾いた。 提灯は手を離れて遠くへ転がっていき、真っ白な地面が近づいてくる。
その時、体を支えようと出された腕が体の下に入った。が、千早の体はあっさりとそれを通り抜けた。 倒れこんだ衝撃で、積もったばかりの雪が舞い上がる。
「あ、おい、大丈夫かー?」
しばし無言の背中に、能天気そうな声がかかる。
「大丈夫じゃない!」
千早はがばっと勢いをつけて体を起こし、八つ当たり同然で相手を睨みつけた。
「山神様かと思ったら違うんだもの!それに転ぶのを止めてもらえないし! ・・・って、あれ?私何で腕をすり抜けて・・・もしかして死んじゃった!?うわ、うそ、どうしよう!」
最初は転んだ事へ対しての怒りが勝っていたが、腕をすり抜けてしまった事を考え、寒さで青白かった千早の顔が更に青くなった。
(本当にどうしよう・・・此処に来る前に死んじゃったら意味が無いじゃない!!)
頭を抱える千早の背中を、高速で冷や汗が流れていく。
「落ち着け。お前は死んでない」
「へ?」
心配事を否定する少年の言葉に眉間に皺を寄せ、千早はまじまじと相手を見る。 不思議と警戒心は沸いてこなかった。見た目は自分より少し年上くらいで、どこからどう見ても向こうは透けていない。 試しに触れようとすると、手は体をすり抜ける。
「でも触れないわよ!?」
「だから落ち着けって。触れないのは俺がまだ此方側に属してない貴石だからだ。死んでるわけじゃない」
「私、貴石の体が物をすり抜けるなんて聞いた事ないよ?」
そう言うと、少年は面倒くさそうに頭をかいた。
「あー、それは此方に属している奴等―相棒となる人間と契約を交わした奴なんだよ。俺はまだ相棒がいねぇの」
「・・・分かるような分からないような。それで、名前は?」
本当はもっと質問してみたかったのだが、千早は名前を聞いていなかった事を思い出し、言葉を呑み込んだ。 すぐに答えてくれると思ったのだが、少年は険しい顔をして悩んでいた。
「もしかして、名前、忘れちゃったとか?」
「いや・・・・・・・・・仮に、白(ハク)とでも呼べ」
「仮?」
「気にするな。今は別の名が必要なんだ。で?さっきから俺の事ばっかり聞いてくるけどあんたは何なんだ?」
先程から質問ばかりして自分の事を何も話していないのだから、少年―白がそう聞くのは当然といえば当然だった。 聞かれるとは思っていなかったため、千早は一瞬言葉に詰まり、不満そうな顔をしている白から視線を逸らし、うつむいた。
「わ、私は、山神様の元へ行くために、来たのよ」
「何で」
「それが、村の仕来たりだから」
答えた声が思ったよりも情けなくなってしまった。
「仕来たり?」
白は淡々と質問をしてきて、何を考えているか分からない。けれど今はそれの方がありがたいかもしれなかった。
「村を護って頂く代わりに毎年、娘をひとり・・・山神様の花嫁として送る事。それで今年は私に白羽の矢が立ったの」
「花嫁、ねぇ・・・・・・花嫁と言ったら聞こえは良いが、只の人身御供だろ。怖ろしくなかったのかよ」
「それはっ」
本当の事をためらいもなく事実を言われ、言葉が続けられなかった。 とても幼い頃から何度も、何度も、誰かが山神様の元へ行くのを見てきた。次は自分だと覚悟をしてきた。
「嫌だと思ったことはなかったのか?」
花嫁となった人は皆穏やかに笑い、村人に笑顔で送り出された。自分の時だって、そうだった。
「皆我慢していたのに、私だけ、嫌、なんて言えなかったもの」
怖ろしくなかった、嫌じゃなかったと言えば嘘になるが、それでも我慢しなければならなかった。 自分の命で今年も村の人達が平穏に暮らせるならと、感情を押し殺した。 うつむいたままの千早の耳に、呆れたような溜息が聞こえた。
「大体、山神が本当に護るはずがないのにか?」
「でも、現に護って下さっているから村が平穏なのよ?」
突然の信じていたものを否定する言葉に、弾かれたように頭を上げ、むっとして言い返した。
「普段信じちゃいないくせに、都合の良い時だけ信じて。そんなので愛想尽かされないはずがないだろ」
そう言った白の表情が、僅かに曇る。
「確かにこの国の神の数は八百万、けれど信仰心が無けりゃ消滅する者だっているし、護ってやる事もできない。 既にこの山の神は自分の山を護るので精一杯なんだ」
「じゃあ、どうして村には禍が出ないのか説明してよ!」
千早は拳をきつく握り締め、半ば叫ぶようにして言った。
(信じたくない、きっと惑わそうとしているんだ)
千早を見る白の目付きが、射抜くように鋭くなった。
「あの村の四つ角に、桃の木が四本植えられているだろ。それが簡単な結界になっているんだ。でも今年中には駄目になる」
「・・・・・・どうして?」
信じられない事に白の言う事は当たっていて、確かに村の四つ角には桃の木が植えられている。
しかしその四本とも枯れる様子は全くないというのに、どうして駄目になると言うのか。
「禍が力をつけてきて、結界を破るかもしれないからだ」
「禍は、どうやって、力をつけたの?」
尋ねられて白は一瞬ためらいの様な表情を見せ、今度は悔しそうに、声を絞り出すように、言った。
「禍は人を喰らう事で力をつける・・・・・・毎年此処に来ている山神への人身御供は、禍に喰われてるんだ」
「うそ・・・」
どくり、と心臓が跳ねた。今や怒気はなくなり、ただ愕然としていた。
「じ、じゃあ、私達は禍に餌を与えてたって事、なの?」
今にも泣きそうな声が、白に問う。
「そうなる・・・・・・助けたかったけど、俺は此方のものには触れられないから、助けられなかった」
ごめんな、とそう付け足して白は押し黙った。
それから千早はうつむいて声を押し殺して泣き、白は慰めの言葉もかけなかった。
静寂が辺りを包み、しゃくりあげる声以外、何も聞こえなかった。

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