東雲

泡沫の物語 ‐弐‐

それから少し経ったころ、白の硬い声が千早を呼んだ。
「千早」
「・・・・・・何?」
まだ少し泣いていた千早は、涙を拭う為にごしごしと目をこすりながら返事をした。
「来たぞ」
先程までとはまた違う、硬く焦燥感がにじみ出る声につられて顔を上げると、 周囲の木々の間に無数の紅玉の瞳を持つ黒い霧がゆらゆらと蠢いていた。
「禍だ」
初めて見る姿に、全身に悪寒が走る。逃げ道を探して首を巡らせるが、 前を、横を、後ろを、どこを見てもそれは見当たらない。 その内に、じわじわと迫り来る姿を見て、蛇に見込まれた蛙のように身動きが取れなくなってしまう。
「白、逃げる方法はないの?」
これに食べられてしまえば、村が襲われてしまう。それだけは避けたいし、食べられたくはない。
「無い事はない。但し、その方法を選べばこの先、禍と何度も対峙することになる」
「それでも、いい」
白が真剣な面持ちで頷く。 この受け答えの時間が、いやに長く感じられた。
「俺は今まで、この祠の中で見ていることしか出来なかった」
白は祠の扉に手をかけ、開いた。そこには、幼子がようやく抱えられるくらいの済んだ氷の様な水晶玉が安置されていた。
「今まで一度だって、こうして精神体で出てくることさえ出来なかったんだ、だから――」
その白の言葉を、私は最後まで聞く事はできなかった。 突然視界が空を仰ぎ、禍に吹き飛ばされたんだと気づいた時には遥か後方の木に背を叩きつけられていた。
「千早ッ!!」
「・・・・・・っ」
衝撃で息が詰まる。あまりの痛さでにじんだ視界には、禍しか確認する事はできなかった。
「千早、聞こえるか!おそらくお前は、貴石使いになる資格があるんだ!だから、まず俺に此方の名を付けろ!!」
それがどうして助かる事に繋がるのか、声が出なくて聞く事は出来そうにない。 ぼんやりした視界に白の姿が現れ、傍にしゃがんだのが見えた。顔を覗き込んでいるのが分かる。
「名は鎖なんだ、名とは世界に繋ぎ留めるもの。 呼ばれる名があって初めて存在が認知される。 元々別の存在の俺は、此方側の人間に名を付けてもらわないと存在が安定しないんだ」
白は早口で説明する。意識が朦朧として、何も考えられない。 何も言えずにいると、正面にいた一番巨大な禍が肺の辺りに突進してきて、 私の体を強く木に押し付けた。ぎしり、とどこかの骨が危なげに軋む。
「はっ・・・・・」
僅かに残っていた空気が体から絞り出され、押し付けられている体は、 どんなに口を開閉しても新しい空気を取り込む事は出来ない。
「早くッ!!」
白の焦った声が聞こえる。
その時、唐突に浮かんできた、言葉。
それは。
「・・・・・・か、な・・・で」
奏、という名前。
「上等だ」
その言葉を耳元で囁かれると同時に圧迫感が消え失せ、体は空気を求めて激しく咳き込んだ。 立っている事が出来なくてその場にへたり込む。
「大丈夫か?」
奏は最初とは違い、今はひどく心配そうに尋ねてきた。
「だい、じょうぶ・・・・・・ありがと」
差し伸べられた手を取ってどうにか立ち上がる。 周囲には結界のような白い光が円形に広がり、波打っていた。 禍はその光が苦手なのか、光が広がる範囲には入って来ない。
「千早」
呼ばれて隣を見ると、奏の容姿は今までとは違っていた。 黒い髪は雪と同じ白銀に、夜色の瞳は晴れた日の澄んだ空の青になっていたのだ。
「え・・・奏、色が」
「あぁ、力を解放した時にはこうなるんだ。それより、今は正式な契約を結ぶ事が先だ」
「名前を付けたら完了じゃないの?」
「面倒な事にな」
奏は心底面倒くさいと言わんばかりに顔を顰め、こんな時なのに思わず少し笑ってしまった。
「手を出してくれ。別にどちらでも構わない」
言われた通りに右手を出すと、奏はその手の甲の中心に爪を立て、軽く横に引いた。 ぴりっとした痛みの後、血が玉になって浮かんでいた。
そして、奏は顔を近づけて、それを舐めた。
「え、ちょっ、奏、血なんか舐めても美味しくないよ!?」
「契約結ぶのに必要なんだよ!誰が好き好んで舐めるか!!」
「あ、そっか」
そんな会話をしていると、一段と白い光が濃くなり、柱状になって辺りを包んだ。 同時に、知らない呪文が脳裏に浮かぶ。
「今、契約歌が伝わっただろ?それを同時に唱えれば契約は成立だ・・・いくぞ」
「此の手は数多の楔、我此処に願うものなり
 血の盟約の元、汝を守護し共に戦う事を誓わん
 猛き蹄よ臆するなかれ、進め、進め、信を刃に」
唱えている途中にふと右手の甲を見ると、傷があったところには親指ほどの小さな白い勾玉が埋まっていて、 奏を見ると、その姿がだんだんと薄れていく。
「貴き翼よ畏怖するなかれ、進め、進め、絆を護りに
 滾りし牙よ懼れるなかれ、紡げ、紡げ、言葉を癒に
 いざ加護の下、秘められし宝玉を解き放たん」
唱え終わると奏の姿は無く、白い光も消えていた。代わりに自分の髪が白銀色になり、瞳は空の色に変化していた。
「奏、どこ?」
消えてしまったのかと不安になって名前を呼んでみる。
《あー、千早?俺お前の中にいるから》
「はい!?」
思わず素っ頓狂な声が出てしまった。聞こえてきた声は直接脳裏に響くようで、二つの精神が同居してるような感じだった。
《安心しろ、解放を解けば元に戻るから。それより、この禍共を滅却しちまおうぜ》
そう、禍はまだ隙をうかがう様に物陰に隠れていた。
「でもどうやって滅却すればいいの?」
まだどうやって何をしたらよいのか、右も左も分からない。
《うーん、お前さっきので疲れてるんだよな・・・説明するの面倒だから、少しの間だけ体貸してもらうぞ》
「へっ!?」
奏がそう言った途端、勝手に体が動き始めた。 右の手は目の高さまで上がり、人差し指と中指を残して握り、左手は右手首を握る。 すると微かに風が渦巻き始めたのが分かった。

http://bungeiclub.nomaki.jp/
design by {neut}