かねて

ひとつだけでもいい



政府の人間が帰り、言霊の幸ふ国の装置がある一室に自分と助手の二人が残っている。研究所のリーダーである自分が牛皮の椅子に座っていると、男は自分に歩み寄ってきた。
「なぜあのような態度を?」

「…」

「あなたがこの研究所のトップなんですよ? 説明するべきはあなたであるはずだ」
男は呆れ果てているようだ。ため息混じりに吐き出される言葉がそれを象徴している。
「迷っている」
椅子の背もたれに全体重を預け、項垂れる。
「今更何を」
「お前も見ているだろう。純粋な子供が何も知らされずにあの世界に落とされ、傷付いていくのを。自分はもう見ているのが辛い。これをこの先何年も見なくてはいけないかと思うと、気が狂いそうだ」
「あれは、あなたが望んだ世界だったはずだ」
「そう…。自分が望んだ世界だった。いまやもう、それは過去のことだ」
「あなたの、あの決意はどうしたんです? 死に絶えた『(とも)』のためなのでしょう?」
あぁ、胸を張ってそういえたのなら良かったのに。
「・・・もう」
自分にはもう、ここにいる意志はなかった。出来るのであれば、この研究の全てを消し去ってしまえたらいいと思うほどに後悔している。

「ならば…もうあなたは要らない」

男はこちらを向いたまま、一歩一歩と下がっていく。装置のところまで行くと、主電源を入れ自分に襲い掛かってきた。首の後ろを手刀で打たれ、意識が遠のく。
男のやろうとしていることはわかっていた。
私もあの子供たちと同じように、あの世界に送られる。これでいい。自分が創った世界の苦しみを自分が味わえばいい。
一度、あの世界に足を踏み入れてしまえば、自身でここに戻ることは叶わない。こちら側に人間が、どうにかしてくれなければ。

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