かねて

ひとつだけでもいい


「いつもここにいますよね?」

今日もまた、いつもと同じような一日が終わるのだと思っていたのに、今日は今までにないことが起きようとしていた。
声のした方に視線を移すと、その人物は既にそこにおらず、自分が座るベンチの隣に座っていた。
「人を見ているんですか?」
隣に座っていたのは、自分より少し下くらいの年齢の男だ。彼の外見はいかにも聡明そうだ。皺一つない細見のスーツ、無駄のないフレームの眼鏡、整えられた髪が風に揺れている。
「リストラされたサラリーマンみたいだ」
 男はそう言って笑ったが、自分はまさしくそれに等しかった。研究を放棄し、クビになったということは職を失ったということなのだから。
「君は?」
「あなたが答えたら答えますよ」
 それからしばらくは沈黙が続いた。だが、その沈黙が心地よかった。初めて会った人間が隣にいて沈黙すると、必死になって話を探そうとするのに。
 しばらくすると、自分の口は自然と開いた。
「君の言ったとおりでね・・・」
「リストラされたサラリーマン?」
「そう・・・・・・後悔している」
「上司の悪口でも言ったんですか?」
「そんなんでクビにならない。というか、私の上はいないんだ。その場所のトップが自分で・・・私はその仕事を放棄したんだが・・・それに対して後悔はしていない。ただ・・・、あんな考えを持ってしまったこと自体を・・・いや、もっと前かな・・・彼に何も出来なかったことを・・・。あぁ、思えば間違いだらけだったのかもしれないな・・・」
初対面の人間にこんなことを言ったってわからないだろうに、ふと口をついででた。
「…そんなわけない」
男はポケットの中を探り、何かを取り出すと自分の手を取ってそれを握らせた。
「なにを…」
「ずっと伝えたかった。それは違うって。あの日、僕は…」
男が何かを強く訴えようとしたその時、自分の意識は遠のいて、目の前は暗闇に染められた。
しばらくすると、その暗闇に一点の光が差し込んで、それが円形にだんだんと広がっていく。
―ここは…
円形の光が大分広がると、そこには中学生の頃通っていた懐かしい母校が映し出されていた。そして、母校を背景に光の中心にいる今は亡き彼である。
彼は教室を飛び出して、いつも開放されている屋上の扉を開けると、その床に寝転がるとポケットに手を突っ込んだ。ポケットの中をごそごそと漁って取り出したのは、あの日自分が渡した一枚の絆創膏だった。

―どうして…?

彼はそれを手に取ると、太陽にそれを翳して幸せそうに微笑んだ。

『僕は、ここにいてもいいんだって、そう思えたんだ!』

―そんな、たった一枚の絆創膏なのに・・・

話し相手は誰もいない。だけど、彼はしっかりとそう言った。強いて言えば、青空にうかぶ太陽が話し相手だったのかもしれない。
すると、突然、屋上に強い風が吹き込んだ。手に持っていた絆創膏がその風に吹かれて、するりと抜け落ちた。

『あ!』

巻き上がる風に攫われた絆創膏を彼は必死になって追いかけた。

『折角見つかった僕の…!』

ついに再びその手中にそれを入れたと思った瞬間、彼はフェンスに身を乗り出し、そのまま落ちていった。
―そんな…



『絆創膏、嬉しかった。お願いだから、自分を責めたりはしないで。あれがあったから、僕は幸せに…』

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