梔子いろは

『少女と魔女の七日間。』

《December.21》

「こんにちは。」
 今日は昨日とは違って、ドアをちゃんとノックして、静かに開けた。私は一度犯した失態を二度起こすほど馬鹿じゃない。
「こんにちは、アリス嬢。ご機嫌いかがかな?」
「上々よ。あら…?その傷どうしたの?」
 ネルスの顔には絆創膏が貼られていた。頬にはガーゼも当ててある。
「あ、あぁ…これか。その、ちょっと転んだんだ。」
 慌てたように言う彼に、不信感を抱かなかったわけではないのだが、その場はひとまずそれで納得することにした。
「ふぅん、案外ドジなのね?」
「お互い様だろう。君はここに来る途中躓いて転んだだろう?」
「なっ、何で知ってるのよ!」
 確かに、私はここに来るとき木の根に躓いて派手に転んだ。だがあの場所はまだ森の入口だったはず。誰にも見られてないと思ったのに!
「もしかして…私をストーカーしたわね…。」
「失敬なことをいうもんじゃないよ。おでこに泥がついてるんだ。」
 そう言われて額をこすってみると、その通り、茶色く固まった泥がある。かあぁと赤くなって俯いた。
「君にも恥じらいはあったんだねぇ…。ほら、拭きなさい。」
 優しく差し出されたハンカチを有り難く受け取り、遠慮なくゴシゴシとその部分をこする。綺麗なハンカチを汚してしまうのがもったいなかったが、好意に甘えて使わせてもらった。
「ありがとう。ハンカチ、後で洗って返すわ。」
「別に構わないよ。お嬢さんの好きにお使い。」
「借りをつくるのは嫌いなの。明日返しに来るわ。」
「お嬢さんがそれで良いというなら、私はそれで構わないさ。」
 妙に人懐っこい笑顔で、彼はそう言った。きっちりハンカチをたたんで、ポケットにしまう。そして何気なくテーブルの上に目を向けると、この間より進んだ本の栞が見えた。
「もう、そんなに読んだの?」
「あぁ、ここまで実に面白かったよ。…まぁ、カニバリズムについてはすごくよく分かった。中々に興味深いよ。」
「私、あの挿絵が気に入ってるの。怖さが、すごく伝わってくるから。」
 自分でページを開き、指をさしてその絵を示す。
「ゴヤの『わが子を食うサトゥルヌス』、か。これも結構な絵だね。」
 絵の中のサトゥルヌスをなぞるように、ネルスの細長い指が動く。
「知ってた?サトゥルヌスは農耕神なのよ?」
「知ってる。祝祭はサトゥルナーリアと呼ばれてるんだろう?」
 未だに絵をなぞっているネルスは、私の目を見てにっこりしながらそう言った。
「えぇ。蝋燭や小さな人形を贈り物として交換するその習慣は、現在のクリスマスに受け継がれてるって話よ。」
「詳しいね。…そういえば、もうすぐクリスマスか。」
「そうね。あと四日か…。」
 顎に手をやって、私はつぶやいた。そんな私を見て、ネルスはふん?と唸った。
「どうしたんだい?何だか少し嬉しそうだね?」
嬉しそうだって?そんなの当たり前だ。だって、
「クリスマスは毎年パパが珍しいもの送ってくれるのよ!」
 去年はホルマリン漬けのミズダコ、一昨年は何だっけ?レッドフォックスのしっぽだっただろうか。宝石より芸術品より輝いて見えるそれらは、私の宝物だ。
「ふぅん。私にはそういう習慣が無かったから、うらやましいな。」
「あ…そうか。」
 魔女と呼ばれていた者たちが、クリスマスなんて祝うわけないか。キリスト教は、魔女を唯一迫害したのだし。祝えるわけがないのだ。
「…ごめんなさい、不謹慎で。」
「気にすることはないさ。…別に祝えないわけでもないし。」
「え?どうして…?」
「言っただろう?最後の生き残りは私だけだと。今更私一人が何をしようと、別に誰も文句は言わないのさ。」
 それでも、あなた個人の感情とかはないの?祝いたくないんじゃないの?そう聞くと、彼は困ったようにこう答えた。
「私は過去の事にこだわる程細かくはないんだよ。」
「あら、そう…。」
 魔女なのに、キリスト教の行事に参加するなんて変なの。私が首を傾げて言うと、彼はやはりどうでもいいらしく、
「キリストの誕生を祝うんじゃない。サトゥルヌスを祝うんだよ。」と滅茶苦茶なことを言った。やはり、ネルスは相当の変人だ。私は心の中でそう思った。

http://bungeiclub.nomaki.jp/
design by {neut}