梔子いろは

『少女と魔女の七日間。』

《December .18》

あの変わり者に会ったのはもう三十年も前のことだ。私はこの日も熱心に森の中を探検していた。冒険家の父の影響もあってか、女の子にしては少々乱雑すぎる育ち方をしていたのだ。学園にいた他の娘たちは、お茶会やパーティーなどが楽しみのようだったが、そんなものに興味は湧かなかった。それならば此処に来て、澄んだ空気を吸いながら駆け回った方がまだマシだった。いつも新種の植物や草花を発見しないかとワクワクしたものだ。
 そんな毎日を過ごしていたある日、私はその小屋を見つけた。森の奥にひっそりと建つ、木造の造り、深紅の屋根はまるでおもちゃをそのまま実物大にした感じだ。今までこんなものがあるなんて知らなかった自分は、好奇心を抑えることはできず、その小さな小屋へと足を向けた。出入り口は一つだけ、正面に扉がある。窓はどこにも見当たらなかった。変なの、と素直に思う。
そこまで考えて、あぁ、とまた新しく思考を巡らせる。そもそも、こんな深い森の奥に誰かが住んでいる時点で、その「誰か」は変わり者なのだ。また無意味に「変なの。」と呟いて、私はその謎の小屋を一周してみた。
ぐるぐると回っている間は、常に想像力を働かせた。これに住んでいるのはどんな人物なのだろう?もしかすると人食い族だったりして。あ、そうなると私は食べられてしまう事になるのだろうか。まぁ、それはそれで面白いかも。などとくだらない事を並べたて、私はドアの前でピタリと止まる。そしてドアノブを静かに握った。小さなそれは、よく見ると細かい文様が描かれている。見たことのない模様だ。この家の家紋なのだろう。わたしはそう勝手に結論付け、握ったノブを右にぐりんと回した。鍵は掛かっていなかった。あっさりと扉は開き、招かれざる訪問者を迎え入れる。小屋の中にはテーブルと椅子が一つずつと本棚。それと。
『ネルス=ノーバディー』という魔女の末裔が、圧倒的な存在感で君臨していた。


 ずかずかと部屋に押し入り、声を大にして訊ねた。
「あなた誰?」
「人に名前を聞くときは、まず自分から名乗るべきではないかね?」
 その男は無駄にいい声でそう言った。
「…アリスよ。アリス=メルシー。」
「初めましてアリス。私の名はネルス=ノーバディー。この世に生きる唯一人の魔女さ。」
 恭しく頭を下げて、彼は私に一礼した。さらり、とくすんだ紫の髪が揺れる。
「魔女?それホント?」
「おや、君は驚かないんだね。一般人にしては珍しい。」
「パパのお陰よ。食人族の話が一番スリリングだったわ。」
「これは頼もしいお嬢さんだ。お父上は冒険家かね?」
 にっこりと口角が吊りあげられるのが見える。そして細められた蜂蜜色の瞳に親愛の色が濃く浮かんでいるのを見て、私は少しだけ警戒を解いた。
「そう、パパは冒険家。本も出してるの。よかったらあげるわ。」
私はそう言って胸に抱えていた、「人間を食べる人間」という本を押しつけるように渡した。そうすると彼は興味深げに中身をパラパラと捲りながら、ふんふん言っている。
それが何だか可笑しくて、頬が自然と緩むのを感じた。
「君の父上は随分辺境の地まで行ったようだね。ルリラウイ地方まで行かないと食人族には会えないだろう?少なくともこの街から海を一つ二つ挟むんじゃないかな?」
「そんなの知らないわ。でもすごく遠いことは事実。だってもう家に八か月も帰ってきてないもの。」
無意識に唇を尖らせ、私はそう言う。
「やっぱり寂しいのかな、お嬢さん?」
「さっ、寂しくなんかないわよ! …もう慣れたし。」
 慣れたのは本当だ。パパはとても忙しくて、めったに家になんて帰ってこないから。だから私は一人に慣れていなければならなかった。ママは私が三歳の時に死んでしまったし。そう言うと、彼はふーんと複雑な表情をした。そしてあぁ、というふうに口を開いた。
「そういえば、今思ったんだがね。」
「何よ、そんなに私の顔じろじろ見て。」
「何で君は見ず知らずの他人の家に不法侵入して、そんな高圧的なのかな?」
「…っっ、悪かったわね!この性格は生まれつきよ!文句があるならパパに言って頂戴!」
「と、そんなに怒らないでくれ。別に文句はないよ。それにこんな素晴らしい文を書く人に、文句なんて言えやしないさ。」
 両手を出して宥めすかすように言われて、私はぐっと詰まってしまう。それにこの人はパパのことを今何て言った?素晴らしい、か。それが何となく嬉しくて、思わず、
「判ってるじゃない。」
「何か言ったかな?」
「何にも言ってないわよ。…と、今何時か分かるかしら?」
「もうすぐ五時半だ。何だ?お嬢さんもう帰るのかい?」
「えぇ、早く帰らないとユズキさんが心配しちゃうから。」
 ユズキ、というのは私の家に一緒に住んでいるお手伝いさんのことだ。ママもいない、パパはほとんど帰ってこない家に子供を一人残すのは、と好意で働いてもらっている。このユズキさん、フルネームは『ユズキ・カナデ』という。名前を聞いたらわかると思うけど、ここの国の出身じゃない。遠い島国から来たらしい。言語留学か何かだと聞いた気がする。私はこの街がそれなりに気に入っているので、血迷っても出ないと思う。
 だから、勉強のために自国を離れているユズキさんを、私は結構尊敬していたりする。
「だから、帰るわ。」
「それは残念だ。…お嬢さん。」
「何よ?」
 扉を開けようとした私を、彼は引き留めた。そしてまるでエスコートでもするかの如く、自らドアを開ける。
「暇だったら、また明日もおいで。お嬢さん。」
「考えとくわ。」
 本当は明日も行くつもりだったけど、そう言われると何だか見透かされてるみたいで気に食わなくて、私は意地悪く笑ってその場を去った。

http://bungeiclub.nomaki.jp/
design by {neut}