月日、3月1日。時刻、午後2時。天候、快晴。場所、屋上。
「無事、卒業おめでとう」
私の目の前に立つ男はにこやかな笑顔で、そう言った。
「…………ありがとうございます」
私は少し俯きがちに、小さく礼を言う。頬を撫でる風はまだ冷たい。
「よくあれだけ嫌いだって言ってた学校を三年間、無遅刻無欠席で通ったね。偉い偉い」
彼はそう言いながら、私がいつも羨んでいる綺麗な手で優しく私の頭を撫でる。しかし私の頭には温かな掌の感触ではなく、ただ軽く冷気が流れるだけだった。
「で。君はこんな所に居て良いの? ご両親とか、待ってるんじゃないの」
「別に良いんです。先に帰っても構わないと伝えたので。もうとっくに帰ってると思いますよ」
「……、随分と冷めてるんだね」
「二人とも仕事が忙しいので」
私がそう言うと、彼は「あっそ」とだけ言って口を閉ざしてしまった。
流れる沈黙。下方からは別れを惜しんでいるのだろうと思える人々の声。少し気になったけれど、わざわざ縁まで行って下を覗き込もうという気にはなれなかった。
私は騒々しいのが大の苦手だ。苦手というよりも嫌いと言った方が正しいかもしれない。大勢で集まって周囲の迷惑も考えずに馬鹿みたいに騒ぐ。そんな騒音を出して何が楽しいのか私には理解できない。あまりに騒がしいと、私は時折吐き気すら催す程にそういったものが嫌いなのだ。
「……まだ、人が嫌いかい?」
そんなことを考えていたら、彼が少し眉根を下げてそう訊いてきた。どうやら無意識の内に嫌悪が顔に出てしまっていたようだ。
「……好きになるのは、難しいですよ」
私がそう答えると、彼はまた困ったような寂しそうな表情を浮かべた。
本当にこの人は私なんかより余程表情豊かだと思う。
「僕なんかと付き合うよりよっぽど簡単だと思うけど……」
自分の頬を人差し指で掻きながらそう言う彼。
私は彼越しに景色を見ながら、小さな溜息と共に答えた。
「生者の方が厄介に決まってるじゃないですか」
「そんなものかなぁ……?」
「そんなものです」
腕を組み小首を傾げながら頭に疑問符を浮かべている彼には、普通の人になら必ずあるはずの足が無かった。
そう、彼は死者――所謂幽霊と呼ばれる存在なのだ。
見た目は普通の学生である。どこにでも居そうな黒髪の短髪に、少しだけ着崩してある制服。開校52年にもなるこの学校の在校生であったことは分かる。
私はこうしてそんな彼と普通に会話をしているが、別に昔から霊感が強くて幽霊さんとはお友達という訳ではない。怖い話はそんなに好きではないし、霊なんて視たことは無かったし、視たいと思ったことも無かった。幽霊なんてまぁ居るんじゃないくらいの存在だったのだ。
それが今では普通に会話し、卒業まで祝われてしまっている。
しかし彼が視えるからと言って、他の霊が視える訳では無い。
彼が特別なのか、私が特別なのか。分からないけれど多分どちらにも原因はあるのだろうと思う。
彼は私にとってかけがえのない友人であり、命の恩人でもあった。
「……まぁ、君にはまだ沢山の時間があるから焦ることも無いか」
彼は優しく微笑みを向けながら、そんなことを言った。何だか半透明な彼が言うと重く、寂しく感じる。
「…………頑張ります」
目は合わせずに、私はそう応えた。
「別に頑張る必要は無いさ。人には向き不向きがあるし、君の好きなようにやるのが一番良いと僕は思うけどね」
「私の好きなように……ですか」
「それに君は今まで充分頑張ったと思うよ。普通あそこまで追い込まれたら不登校になるっていうのに」
「確かにそこは自分でも良くやったと思いますよ」
肩を竦めて笑った彼に対し、手元の証書入れを見つめながら私は思ったことを口にした。私も、これが貰えるとは思っていなかった。
ふと顔を上げると、彼の優しい眼差しと私の視線が絡んだ。
しかしそれも一瞬のことで、私は即座にその視線から逃れるように顔を逸らした。人の目と目を合わせるという行為が私はどうしても苦手なのだ。私は、人の目が…怖い。
どうしても笑われているような気がしてしまう。そんなことは無いと頭では理解していても心がそれを拒む。……病んでいるのだ、私は。
「まだまだ、時間は掛かりそうだね」
そんな私を見て彼は笑う。その他大勢の笑顔という物が私は好きじゃ無いが、彼の微笑に近い笑顔は好きだった。
「……そうですね」
私は静かにそう返した。多分、私がこれを克服するにはかなりの時間を要するのだろう。
彼の微笑を見ながら、私はそんなことを思った。