真崎珠亜

追憶の残滓

 目覚めると、腰が痛かった。
時計を持っていない私には一体今が何時か分からなかった。気が付くと、あの屋上の前で眠ってしまったらしい。体調が悪化していないのが奇跡に思えた。
 生憎、目の前が屋上だというのにこの空間には窓が無かった。何という設計ミスだろうと思うが、そんなことを考えている場合ではない。
先程よりは回復したらしく、頭は痛いが少しは動けるようになっていた。このまま教室に荷物を取りに行って帰ろうかと思ったが、まだ人が残っていたらと思うとどうしても竦み足になってしまう。
 どうしようかと迷う私の目に、あの『開放厳禁』の文字が飛び込んできた。
…………開けてみようか。
ふと、そんなことを思った。
鍵が掛かっていたらそこで終わりだが、もしも開いていたら夕方か夜かくらいは分かるだろう。それに、こんな所に来た所為か何となくこの扉の向こうが気になった。
 まだ酸味の残る口を洗ってから、私は静かに冷たいノブに手を掛けた。それからノブが回らなくなるまで右に回す。
開くわけが無い。
入学当初から、屋上に上れないことは先生に言われていた。上ったところで何が有るわけでもないし、特に興味は無いのだが。
それにしては、何かしつこく注意していたような気がする。……気のせいだろうか?
 私はそんなことを思いながら、鉄扉を前に押し出した。
ガゴンッ、と重く硬い音がした。手に、硬い感触が伝わって来た。
 無理か。と思ったが、その後その鉄扉は全く重みを感じさせないようになり滑るように開いた。
少し意外な結果に私は呆然とした。確か、あそこはちゃんと施錠してあるはずなのに……警備員が施錠し忘れたのだろうか…?
 開けた途端、2月というだけあって冷気が流れ込んできた。
外はもう、真っ暗だった。冬は空気が綺麗だと言うが、空は黒いながらも澱んでいて、冷気なのに体にまとわりつくような気持ち悪さを持っていた。
 初めて踏み入れた屋上は、当たり前だが殺風景だった。
遠くに街の外灯が少し見えるくらいで、あとは殆ど灯りが無い。学校の周りには、そんなに家が建っていないのだ。
 それにしても、寒い。
コートも羽織っていないので当然といえば当然である。けれど、この寒さは尋常じゃない。少し高かった熱も、一気に冷まされた気がする。
 私はドアを閉めて、屋上の端へと歩み寄った。
普段人が入らないからなのか、古い校舎だからなのか、落下防止のフェンスなどは無く、お慰み程度に私の胸くらいの高さの手すりがあるだけだった。
少しだけ興味に駆られて、手すりから身を乗り出して下を覗き込んでみた。
 闇。
あるのはそれだけだった。学校の校舎の灯りすら見えない。もしかしたら、もうかなりの時間なのかもしれない。私は警備員にも見付けて貰えなかったのだろう。
 下は完全なる闇だった。
地上が見えない。まるでどこまでも続いて行くような、そんな闇。
 ―――――――――飛び降り。
 私の頭の中に、そんな言葉が浮かんだ。
飛び降りというのは自分でも気が付かないほど呆気なく逝けるらしい。確か、どこかでそんな話を聞いた。
今が絶好のチャンスな気がする。
 そう思い立った途端、私は行動に移していた。
何とか手すりを跨いで、その先にある足一つ分くらいしかない足場に足を乗せ、寄り掛かるように手すりに掴まる。
 後は手を離して少し前にジャンプしてしまえば、それで終わるのだ。私の嫌いなモノ全部、消えてくれるのだ。
 やっと、終わる。
今まで苦しかったこと辛かったこと全部終わる。
この闇が、全部包んでくれる。
ふと、風が吹いた。頬がやけに冷たく感じた。
 そして私は、手を離し―――――――――


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